8bro

キャラメルプライベート

波打ち際

生と死について書いた文章を推敲している内に、身近な人が亡くなった。
そこから更に試行錯誤して投稿したが、間違えて記事ごと削除してしまった。
それもまた必然だったのかもしれない。
誰にも読まれなかったかもしれないけれど、僕がそれを書いたということにはきっと薄く滲む絵具のように微かで強かな意義があった。

 

愛に触れると所有欲に苛まれるのに、人が誰かを所有することなんてそんなこと絶対に一生叶わないのだから実に意地の悪い仕組みだ。

そんな風に誰かを好きだと思う度に、ふと、独りであることに気付く。

ここ5年ほどで漸く気付いたが、どうやら好きなものの傍にいると、その死に寄り添うことになるらしい。
獣医さんは動物の死。芸術家は芸術の死。夫婦ならば世界一愛した人の死をこの身を以てしてみつめなければならない。
好きなものと手に手を取り合うのならば、同時に死の覚悟を持たなければならないって、ねぇねぇどうしてそんなに残酷なのかな。
そんなことを考えているからか、ここ何年も、新しい素敵な誰かとはじめましてと出会う度、僕の中ではその人の死が想起される。

この人も死ぬ。そうか死ぬのか。

そしてきっと同じ作用なのだろう、恋人ができる度に、その人と別れる日のことも具体的にイメージするような癖がついている。
「さよなら」と言われて「うん、さよなら」と言う。
あんなに好きだったのに、こんなに冷たい気持ちになれるものなんだなと、薬指の爪の白い三日月をみつめながら電車に乗って家に帰る僕の中の静けさまでもありありと上映される。

毎秒毎秒体の中で死んでいく細胞のように、感情の機微や愛や焦燥や満足や悲しみも日々生まれてはせっせと死んでいく。

そうして生きるために繰り返された死が僕にもたらした大きな花束のような悲しみと幸福を両腕いっぱいに抱えながら、いつかあの渚の向こうから本当の死が僕を迎えにきてくれるのをじっと待ち続ける。


風が熱い。もう夏が来る。