8bro

キャラメルプライベート

ベッドの下にはワニがいる。

どんなに熱い紅茶を注いでも、放っておくとすぐに冷めてしまう。
世界ってとても寒いんだね。

僕の預かり知らないところで知らないあの人やこの人は様々なことを学んでいる。
自分の知らない知識や知らない言語、知らない常識が、カルチャーの数だけ、あるいはそれ以上の数あるようだ。
自分は少しの数のカルチャーに通じているけれど、そもそもカルチャーというものはドロドロに溶けた宇宙みたいなところだから、通じているという風に思っていてもそれはその宇宙の中の星1つに手探りに触れた程度の話。
銀河には数えている内に死んでしまうんじゃないかっていう位の数の星があって、はたまた宇宙にはその銀河が何個も何個もあるらしい。
評論家達は、とあるカルチャーのことをプラネタリウムを観るように広く詳らかに眺めて理解することができるんだろうか。

僕にはそんなことができないから想像もつかないけれど、たまに、そういう「わからない」こと「みえない」ことが心臓が飛び散るんじゃないかっていう位情けなくなって消えてしまいたくなる。

高校生の頃、問題集で読んだ現代文で
近所の池に住み着いたと噂されているワニに会いに行こうとする女の子の話があった。
ワニに会いに行って、あわよくば食べられてしまいたいと感じた、いじめに遭っている女の子の心情について考察する問題が出たが、それに対して自分が書いた答えは以下のような内容だった。
【 日常の中には「消えてしまいたいなあ」と思うような小さな絶望の種がそこかしこに転がっている。実際に自分の身体を傷つけたり滝壺に飛び込んだりするようなリアリティのある「死」への欲求とは少し肌触りの違う、そんな「消えたい」が心に灯ったとき、我々は自分の日常を守るため、それを無事に吹き消さなければいけない。彼女は、非日常的な、いるかいないかも分からないようなワニに会いに行って食べられてしまいたいと想像することで、それを吹き消そうとしている。そう願うことで、自分の絶望を上手く宥めているのだ。 】
ちなみに模範解答は全く違っていて
「女の子は、近所で嫌われ者になりつつあるワニといじめられている自分とを重ねてみることで自分を慰めたかった」的な感じだった気がする。
国語は得意だったのにあまりにも答えが違ったことに驚いた。だから今でも覚えている。

僕はとってもヘラヘラ生きている。
でも、どんなに楽天的にヘラヘラ生きていても、ごくたまにワニに食べられたくなる。
本当に、たまーに、思いがけない窪みに足をとられる。
そういうとき決まってイメージすることがある。
「消えるスイッチ」だ。赤くて小さなそのスイッチを押すと僕は消える。
家族が悲しまないように、家族の記憶から僕は抹消され、僕の書いたもの残したもの、部屋や揃えた本に至るまで全て消え去るとする。
消えたいと願った僕は、そのスイッチを押すだけで、今まで育んだ全ての軌跡ごと、めでたく無に帰すことができる。
目の前のスイッチに指をかける。ドッ と重みのある鼓動が迫ってくる
あとほんの少し力を入れるだけだ。

ところが僕はいつもそのスイッチを押すことができない。
スイッチに触れ早鐘のような鼓動の狭間で考えることはいつも同じだ。
「消し去るには少々勿体ないと思える人生なんじゃないか」
「このスイッチを押す前にできることが、自分が想像するよりもっと沢山あるんじゃないか」
「少ないとはいえ培ったことが消えてしまって本当にいいのか」
「消える前にあの人に会いたい」
「消える前に寿司食べたい」

よ、よし、今日のところは押さないでおこう。

幸か不幸か昔から想像の過ぎた子供だったので、こんな風にして自分を宥めるのが得意だ。
例え悲しいことがあっても、こうやってあらゆる方法を尽くして世界を好きでいようと足掻く。
たぶん僕は世界が好きなのだ。たぶんね。
というより憎めないのかもしれない。睨み合っている内に面白くなってきて笑い出してしまう
だって、どんなに悲しくったって、いつでも御飯は美味しいし、そんな風に御飯が美味しいせいで感傷に浸りきれないし、泣き続けてたら目が腫れて古本屋にも出かけられなくなるし、大体、今日スーパーでみかけたトマトだってとてもとてもキレイで、そんな風に景色や優しさは僕を見放してくれないからいつもいつもスイッチ押せないし、あんな変なスイッチすら押せない僕を今日もワニは食べてくれる気はないらしい。
ふいな絶望が身に訪れる度「ねえ僕悲しいんだけど」と、その黄金の瞳を覗き込む。けれどワニは口を開けようとしない。
僕のような浅漬け程度の落ち込み方では餌認可が降りないのだろう。
このワニ、どうやらグルメらしい。

麗しき逃亡

眠くて仕方がない。
夜に行儀よく寝床につき、朝決まった時間に起き上がる。

それなのに昼を過ぎるとまた泥水に沈んでいくように眠くなってくる。大した夢もみない。
しかし、少し前に世界がバラバラに弾ける夢をみた。恐ろしかったけれど、あの夢は良かった。

 

意図しなくても知り合いというのはぶくぶくと増えていく。
高校生の頃、卒業を間近にして1番仲の良かった友人Kが「自分のことを知っている人間が年月と共にどんどん増えていくのは気味が悪いので、ある日全てを真っ白にするために誰にも何も言わずにどこかへ行きたい」といった話をした。

半ば本気の様子でそう呟くKを前にして、僕といえばそんな気持ちが少しも分からなかったので「そうなの」とだけ言って黙った。
そして、Kはそのいつかが来たら僕のことも真っ白にしてしまうのだろうか、などと考えていた。
けれど今の僕ならばきっと、そのときのKに「そうだね」と言うことができると思う。
真っ白にはできなくても、時折全てを真っ平らにしてしまいたいとそう思うのだ。

そして凹凸のなくなったそのスベスベで広いところに倒れ込んで、同じく真っ平らな空を眺めながらただずっと黙っていたい。


秋がすぐそこまで来ている。
僕は寒くなっても決して上着を羽織らず過ごしている。わりと寒い。

けれど寒いのは平気だ。むしろまるで滝修行(したことないけど)のようで、どちらかというと好ましい。あの冷たい空気でハッと正気に戻る感じが良い。
暑い夏は正気に戻る機会がないので、ちゃらんぽらんなことばかりしてしまってよくない。
秋はというと、昨今の秋は1週間くらいしか存在していなかった気がするので覚えていない。
春、春は春でまあまあちゃらんぽらんなことをしている。ちゃらんぽらんにしていない間はボーっとしている。
つまり
僕が正気でいるのは1年の内、僅か三分の一ほどの期間ということになる。
これは実に由々しき事態だ。しかも最近は地球が暑くなっているというではないか。このままでは1年中ちゃらんぽらんなことしか言えなくなってしまう。

ということで、来年の七夕の短冊に書く事は「ストップ温暖化」に決定した。

 

夏に難しい言葉は使わない。


科学館に行ってプラネタリウムを観よう!というコンセプトで友人と出掛けた。
夏休みラストスパートの小学生の大群や、制服を着て何やらプリントに書き込んでは館内を急ぎ走り回る中学生達に紛れて館内を歩く。
薄々感づいてはいたけれど自分は「科学館」というところがとても好きらしい。
脳天から爪先までどっぷり文系な僕は数学や科学の知識が乏しく、だからこそ、理数絡みのことに対して盲目的なまでに憧れと尊敬の念を抱いている。

知らないことが詰まっていて、なんでもできて、簡潔で、なんかカッコイイ!みたいな。

文字にするといかにも馬鹿丸出しだけど実のところ本当にそう思っている。
科学館ってそんな気持ちをギューッと込めた施設だと思う訳、というか実際そうな訳。

自分が死んだ暁にはプラネタリウムの地縛霊になることに決めた。
だって、ずっとずっとあそこにいられたら最高だ。


先日また1つ歳を重ねた。
誕生日に合わせて友人が美味しい夏のお菓子を送ってきてくれた。
何かが届く度に思うけど、小包ってどうしてこうも嬉しいんだろうか。


夏は多感になるけれど、そうして多くのこと受け取って出てくる夏由来の答はピントの合ってない写真みたいな、そういうどうしようもないようなものばかりな気がする。
壁に飾ることもできないけれど捨てることもできないから、引き出しとかにポンと入れておく。


昔の友達は、みんな会う度どんどん優しくなるから、川を流れる小石みたいにこのままどんどん丸くなっていって最後は一体どうなっちゃうんだろう、とか時々不安になる。
たぶん自分も年々優しくなっていて、それは色んなものを見て許容範囲が広くなったっていうのもあるけど、人間と関わることに慣れてきて手を抜き始めたっていうのもあると思う。
手を抜くというか、節度を知ったというか、要領がよくなったというか。

本当は要領なんて良くならなくてもいいんだろうけど、一度やり方を知ってしまったらもう戻ったりもできないんだよなあ。

そして特段戻りたいとも思えないのは、何でもかんでもあけっぴろげにすることが必ずしも正義って訳じゃないって知ったからなのか。
本当のことなんて、誰にも言わなくていいんだよ。

僕もあなたも、あの人も。本当のことなんて誰にも言わなくていいのよ。
「あなたの全てを知りたい」っいう欲求は一種の脅迫だと思う。
その要求にNOと答えたらまるで極悪人をみるような目で見られるけど、例え本当のことを言ってなかったとしてもそこに愛があったらいいんじゃないかな、と。
対峙する1人1人に向けて1つ1つ愛をこめて作った化けの皮をかぶる日々、それってただ丸裸でいるよりは愛があると、僕は思う。


プラネタリウムで初めて知ったんだけど、ブラックホールは穴じゃなくて球らしい。
ホールって名前なのに!騙された!!
ただでさえ得体が知れなかったのに、もっと得体の知れないものになった。

絶対そんなものに吸われて死にたくないって強く思ったけど、例え僕が「ブラックホール(実はボール)に吸われて死にたい!」って熱望したとしてもそれはそれで絶対叶わないんだろうなってことにも気付いた。

でもやっぱり恐ろしかったから、まず敵を知らなくてはいけないと思い宇宙の本を買った。
今読んでいる虫の本が終わったら読もう。

甘いまま凍てついた議論の死骸

ままごとのような恋愛しかできない僕は非道と呼ばれても仕方がないのかもしれないけれど、親身になれない他人の相談事と同じような色にしかみえないのだから、非難されてもきっと真摯に反省はできない。
こういった倫理を体内から外気にむけて言葉として形作ると、なんだかいつも本質とは違ったものになってしまったような喪失感がまとわりついてくる。

世界には既存の定義がひしめき合っていて、僕もそのどれかを息をするように無意識に選び取って生きているのだから仕方のないことなのだろうけれど、僕の体内で脈打つこの胚は、確かに温度も色もある大切な一個人なのにそれを伝える術が僕にまだ備わっていないような気がする。

誰をも欲しくないのに、誰かに触れられると息が止まる。
そのまま死んでしまえばいいのに、そうはいかないのが日常というものである。
人には面倒なものが沢山備わっていて、苦しみもまた糧になったりして、はた迷惑なシステムだ。

強靭さなど要らないのに、どんどん丈夫になっていく。

誰かを好きになったような気になっても、結局のところ嵐が欲しいだけで、甘さが欲しいだけで、熱のある思想が欲しいだけだから、その人自身が欲しい訳じゃない。僕をあげたい訳でもない。その揺らぎを肴に文章や思案をめぐらせて愉しいだけの悪趣味な人間というだけのこと。
そういうところが生物として駄目だって分かっている、だからもういいのに
もういいの
それなのに
まだ若い、まだ若いのだからと言われて、まともに悲観することも許されない。
足踏みをしている気分だ。早くうんと歳をとって堂々と絶望したい。

人はどうしようもなく独りなんだよ?って言うと、そんな寂しいことを言うんじゃないと叱られる。
寂しくなんかない、あなた方が夢みてるものと僕が夢みてるものが違っているだけのことです。
あなたは孤独が嫌いなの?こんなにも美しいのに?
誰といても、物を考えているとき人はいつでも孤独になれるでしょ。それは、素晴らしく静かでこの上なく美しい時間だと僕は思う。
だから僕は考え事が好き。


孤独という字の中には、キツネと虫がいるようだけど、キツネと虫は特別孤独なのかな。

呪文

 

ここ最近、こっそりと、人生で一番弱気になっていたんですがちょっと解決。解決記念に綴る。
まだまだ作ることを諦めなくて済みそうです。
よかったなあ、ありがとう家族、ありがとう地球、ありがとう金星(昨日みたから)。

自分には何もないんだ、と穴に落ちるように唐突に思ったとき、誰かに縋り付きたくなります。
この思考回路は、とっても卑怯だな、と思う。
普段のざくざく歩いていけるときには切り捨ててこれたアレコレが急に愛しくなる瞬間が、夕立ちのようにやってくる。
「すてきだね」「唯一無二だよ」って囁いてくれる人を探そうとする。馬鹿だなあ。意味ないなあ。
この間は、誰にも何も言わないよう自分を律していたから結局誰にも迷惑かけずに済みましたが、はたまた誰にも言わなかったから変に膨れ上がったのかもしれませんね。
でも、誰かに言うことで変質したりすることもある。難しいね。
自分以外には、あんまりネガティブなことは言わないようにしています。
頭の中はどうせぐちゃぐちゃだから、せめて言葉の上では強く潔くありたいので。
言葉につられて、強くいられるときもあるし。
言葉は呪文です。言葉にすれば、力を持ってくれる。良くも悪くも。
あなたは元気ですか?僕は元気です。

手紙の決まり文句すら、僕を護ってくれるのです。
僕は元気です。って、聞かれてもいないのに誰かに言うことで足元が強くなる気がします。
僕は元気です。手紙を書くあてが今ないので、ここで発信。

どこかの誰かへ、聞かれてもいないけど答えます。

毎日毎日、誰かに話をすることで自分に呪文をかけます。
「おはよう」って挨拶するだけで、今日も自分に朝がきたんだって気付ける。
悲しいことに足を取られないように、嬉しいことに気付けるように。

良い呪文をかけれる良い魔法使いを目指して頑張ります。
これも呪文。

邪悪な愛妻弁当

スターバックスの店員さんは何故かくも優しいのか。

僕は時々スターバックスに入店する。
巷ではスターバックスの呪文のように長い商品名や、謎のトッピング法や飲み物のサイズ選択の分かりづらさに太刀打ちできる気がしないので恐ろしいというような意見を聞く。
確かに同意するし、僕はスターバックスの常連という訳でもないのでトッピングやら豆乳アレンジやらはよく分からないし頼む勇気もない。
だってレジで「あ、あの、牛乳を、豆乳に、して頂くことって…」と言い出して「はい?当店ではそのようなサービスは行なっておりませんが」と失笑されたら、その場で切腹するしか道はない。
おそろしい。しかし僕はそんなに豆乳が好きな訳ではないので問題ない。

そういう変化球は恐ろしいが普通に注文する位はできる。

そして僕には【悪びれず質問する】という得意技があるので、レジが混んでいなければ「温かくて甘いのってどれがオススメですか?」とか「これには何が入ってるんですか?」とか「このクリームの上に乗っかってる赤いの何ですか?」とかズケズケ聞いて好みのものを決めることができる。

ちなみにレジが混んでいたらキャラメルマキアートのトール、その一択だ。

そういった魔の注文方法より何より僕が不安になるものがある。

それはスターバックスの店員さんの、明らかに他チェーンのカフェのその人たちよりにこやかで優しいその親切さだ。
不安になる。スターバックスの店員さんは何故かくも優しいのか。


以前、遠い土地でバスに乗っていたとき【ほがらか】という名前のバス停があった。
そのときの恐怖に似ている。
【ほがらか】とだけ伝えられる土地情報、その唐突な陽気さは得体が知れないが故に「ほがらか」であることは本来良いことなはずなのに、大変気持ちが不安定になる。
【ほがらか】って何!?そのバス停で降りたら、どこに連れていかれるの!?


コーヒーを選ぶのに必死でニコリともせずメニューをみつめて注文するだけの僕に対して彼女らは「待ち合わせですか?」「お財布とってもかわいいですね!」「今日はお出掛けですか?」「ゆっくりして行ってくださいね♪」と、レジ所そしてランプ下、各所でただコーヒー一杯を頼んだだけの無愛想な自分に、代わる代わる優しくしてくれる。
何故そんなに優しくしてくれるんだ。全くもってドキドキする。
僕はカレー屋で接客をしていた経験があるが、お客さんに対してあんなに優しくにこやかに接することができた試しがない。
スターバックスはスタッフに特別そういった指導をしているのか、はたまたスターバックスで働いているという自負が彼女らを笑顔に、そして親切にするのか。
僕は想像できない。
スターバックスで働く彼女たちが、夏場、部屋で半裸でアイスを食べている様が。
彼氏に話しかけられてもケータイから目を離さず無表情で「別にどうでもいいじゃん」と吐き捨てる様が。
ラーメンを食べるとき、表面に浮いている油の玉を箸で繋ぎ合わせて1つの大きな円を完成させニヤッとしている様が。
絶対に絶対に想像できないのだ。
もしかすると彼女達は本当にそんなことはしないのかもしれない。
夏場だってちゃんと可愛い部屋着をきて、アイスだってハーゲンダッツか白熊の二択。
彼氏に話しかけられたら笑って「なぁに?」と振り向いて、何ならそのとき手作りのビーフシチューを煮込んでいる最中かもしれない。
そして、食べるラーメンは表面が野菜で覆われていてハナから油の玉なんて垣間見えないのだ。
きっと、そういう人しかバイトしちゃ駄目なんだ。

そんな彼女達が屈託なく僕に笑いかけてくれる。

ごめんなさい、僕、悪い奴なんです、と懺悔したくなる程の、彼女達の、ほがらかさ。
夏場、半裸で、ごめんなさい。

大きな円を作ってごめんなさい。
恋人に関しては、付き合っている間はそれなりに優しく接しているつもりだが、いつだったか、付き合いたてだった当時の彼女と一緒に外のベンチでお昼を食べていたときに、彼女が「私も愛妻弁当が食べたい。今度作ってきて!」と言い出したので、そのとき彼女が食べていた市販の弁当のパッケージに油性ペンで大きく【愛妻】と書いて「はい、愛妻弁当。」と言って手渡して「食べたかったんでしょ?よかったね!」と、にっこり笑ってあげた。

それ以来、彼女が僕に弁当をねだることは一度もなかった。
 

 

波打ち際

生と死について書いた文章を推敲している内に、身近な人が亡くなった。
そこから更に試行錯誤して投稿したが、間違えて記事ごと削除してしまった。
それもまた必然だったのかもしれない。
誰にも読まれなかったかもしれないけれど、僕がそれを書いたということにはきっと薄く滲む絵具のように微かで強かな意義があった。

 

愛に触れると所有欲に苛まれるのに、人が誰かを所有することなんてそんなこと絶対に一生叶わないのだから実に意地の悪い仕組みだ。

そんな風に誰かを好きだと思う度に、ふと、独りであることに気付く。

ここ5年ほどで漸く気付いたが、どうやら好きなものの傍にいると、その死に寄り添うことになるらしい。
獣医さんは動物の死。芸術家は芸術の死。夫婦ならば世界一愛した人の死をこの身を以てしてみつめなければならない。
好きなものと手に手を取り合うのならば、同時に死の覚悟を持たなければならないって、ねぇねぇどうしてそんなに残酷なのかな。
そんなことを考えているからか、ここ何年も、新しい素敵な誰かとはじめましてと出会う度、僕の中ではその人の死が想起される。

この人も死ぬ。そうか死ぬのか。

そしてきっと同じ作用なのだろう、恋人ができる度に、その人と別れる日のことも具体的にイメージするような癖がついている。
「さよなら」と言われて「うん、さよなら」と言う。
あんなに好きだったのに、こんなに冷たい気持ちになれるものなんだなと、薬指の爪の白い三日月をみつめながら電車に乗って家に帰る僕の中の静けさまでもありありと上映される。

毎秒毎秒体の中で死んでいく細胞のように、感情の機微や愛や焦燥や満足や悲しみも日々生まれてはせっせと死んでいく。

そうして生きるために繰り返された死が僕にもたらした大きな花束のような悲しみと幸福を両腕いっぱいに抱えながら、いつかあの渚の向こうから本当の死が僕を迎えにきてくれるのをじっと待ち続ける。


風が熱い。もう夏が来る。