8bro

キャラメルプライベート

麗しき逃亡

眠くて仕方がない。
夜に行儀よく寝床につき、朝決まった時間に起き上がる。

それなのに昼を過ぎるとまた泥水に沈んでいくように眠くなってくる。大した夢もみない。
しかし、少し前に世界がバラバラに弾ける夢をみた。恐ろしかったけれど、あの夢は良かった。

 

意図しなくても知り合いというのはぶくぶくと増えていく。
高校生の頃、卒業を間近にして1番仲の良かった友人Kが「自分のことを知っている人間が年月と共にどんどん増えていくのは気味が悪いので、ある日全てを真っ白にするために誰にも何も言わずにどこかへ行きたい」といった話をした。

半ば本気の様子でそう呟くKを前にして、僕といえばそんな気持ちが少しも分からなかったので「そうなの」とだけ言って黙った。
そして、Kはそのいつかが来たら僕のことも真っ白にしてしまうのだろうか、などと考えていた。
けれど今の僕ならばきっと、そのときのKに「そうだね」と言うことができると思う。
真っ白にはできなくても、時折全てを真っ平らにしてしまいたいとそう思うのだ。

そして凹凸のなくなったそのスベスベで広いところに倒れ込んで、同じく真っ平らな空を眺めながらただずっと黙っていたい。


秋がすぐそこまで来ている。
僕は寒くなっても決して上着を羽織らず過ごしている。わりと寒い。

けれど寒いのは平気だ。むしろまるで滝修行(したことないけど)のようで、どちらかというと好ましい。あの冷たい空気でハッと正気に戻る感じが良い。
暑い夏は正気に戻る機会がないので、ちゃらんぽらんなことばかりしてしまってよくない。
秋はというと、昨今の秋は1週間くらいしか存在していなかった気がするので覚えていない。
春、春は春でまあまあちゃらんぽらんなことをしている。ちゃらんぽらんにしていない間はボーっとしている。
つまり
僕が正気でいるのは1年の内、僅か三分の一ほどの期間ということになる。
これは実に由々しき事態だ。しかも最近は地球が暑くなっているというではないか。このままでは1年中ちゃらんぽらんなことしか言えなくなってしまう。

ということで、来年の七夕の短冊に書く事は「ストップ温暖化」に決定した。

 

夏に難しい言葉は使わない。


科学館に行ってプラネタリウムを観よう!というコンセプトで友人と出掛けた。
夏休みラストスパートの小学生の大群や、制服を着て何やらプリントに書き込んでは館内を急ぎ走り回る中学生達に紛れて館内を歩く。
薄々感づいてはいたけれど自分は「科学館」というところがとても好きらしい。
脳天から爪先までどっぷり文系な僕は数学や科学の知識が乏しく、だからこそ、理数絡みのことに対して盲目的なまでに憧れと尊敬の念を抱いている。

知らないことが詰まっていて、なんでもできて、簡潔で、なんかカッコイイ!みたいな。

文字にするといかにも馬鹿丸出しだけど実のところ本当にそう思っている。
科学館ってそんな気持ちをギューッと込めた施設だと思う訳、というか実際そうな訳。

自分が死んだ暁にはプラネタリウムの地縛霊になることに決めた。
だって、ずっとずっとあそこにいられたら最高だ。


先日また1つ歳を重ねた。
誕生日に合わせて友人が美味しい夏のお菓子を送ってきてくれた。
何かが届く度に思うけど、小包ってどうしてこうも嬉しいんだろうか。


夏は多感になるけれど、そうして多くのこと受け取って出てくる夏由来の答はピントの合ってない写真みたいな、そういうどうしようもないようなものばかりな気がする。
壁に飾ることもできないけれど捨てることもできないから、引き出しとかにポンと入れておく。


昔の友達は、みんな会う度どんどん優しくなるから、川を流れる小石みたいにこのままどんどん丸くなっていって最後は一体どうなっちゃうんだろう、とか時々不安になる。
たぶん自分も年々優しくなっていて、それは色んなものを見て許容範囲が広くなったっていうのもあるけど、人間と関わることに慣れてきて手を抜き始めたっていうのもあると思う。
手を抜くというか、節度を知ったというか、要領がよくなったというか。

本当は要領なんて良くならなくてもいいんだろうけど、一度やり方を知ってしまったらもう戻ったりもできないんだよなあ。

そして特段戻りたいとも思えないのは、何でもかんでもあけっぴろげにすることが必ずしも正義って訳じゃないって知ったからなのか。
本当のことなんて、誰にも言わなくていいんだよ。

僕もあなたも、あの人も。本当のことなんて誰にも言わなくていいのよ。
「あなたの全てを知りたい」っいう欲求は一種の脅迫だと思う。
その要求にNOと答えたらまるで極悪人をみるような目で見られるけど、例え本当のことを言ってなかったとしてもそこに愛があったらいいんじゃないかな、と。
対峙する1人1人に向けて1つ1つ愛をこめて作った化けの皮をかぶる日々、それってただ丸裸でいるよりは愛があると、僕は思う。


プラネタリウムで初めて知ったんだけど、ブラックホールは穴じゃなくて球らしい。
ホールって名前なのに!騙された!!
ただでさえ得体が知れなかったのに、もっと得体の知れないものになった。

絶対そんなものに吸われて死にたくないって強く思ったけど、例え僕が「ブラックホール(実はボール)に吸われて死にたい!」って熱望したとしてもそれはそれで絶対叶わないんだろうなってことにも気付いた。

でもやっぱり恐ろしかったから、まず敵を知らなくてはいけないと思い宇宙の本を買った。
今読んでいる虫の本が終わったら読もう。

甘いまま凍てついた議論の死骸

ままごとのような恋愛しかできない僕は非道と呼ばれても仕方がないのかもしれないけれど、親身になれない他人の相談事と同じような色にしかみえないのだから、非難されてもきっと真摯に反省はできない。
こういった倫理を体内から外気にむけて言葉として形作ると、なんだかいつも本質とは違ったものになってしまったような喪失感がまとわりついてくる。

世界には既存の定義がひしめき合っていて、僕もそのどれかを息をするように無意識に選び取って生きているのだから仕方のないことなのだろうけれど、僕の体内で脈打つこの胚は、確かに温度も色もある大切な一個人なのにそれを伝える術が僕にまだ備わっていないような気がする。

誰をも欲しくないのに、誰かに触れられると息が止まる。
そのまま死んでしまえばいいのに、そうはいかないのが日常というものである。
人には面倒なものが沢山備わっていて、苦しみもまた糧になったりして、はた迷惑なシステムだ。

強靭さなど要らないのに、どんどん丈夫になっていく。

誰かを好きになったような気になっても、結局のところ嵐が欲しいだけで、甘さが欲しいだけで、熱のある思想が欲しいだけだから、その人自身が欲しい訳じゃない。僕をあげたい訳でもない。その揺らぎを肴に文章や思案をめぐらせて愉しいだけの悪趣味な人間というだけのこと。
そういうところが生物として駄目だって分かっている、だからもういいのに
もういいの
それなのに
まだ若い、まだ若いのだからと言われて、まともに悲観することも許されない。
足踏みをしている気分だ。早くうんと歳をとって堂々と絶望したい。

人はどうしようもなく独りなんだよ?って言うと、そんな寂しいことを言うんじゃないと叱られる。
寂しくなんかない、あなた方が夢みてるものと僕が夢みてるものが違っているだけのことです。
あなたは孤独が嫌いなの?こんなにも美しいのに?
誰といても、物を考えているとき人はいつでも孤独になれるでしょ。それは、素晴らしく静かでこの上なく美しい時間だと僕は思う。
だから僕は考え事が好き。


孤独という字の中には、キツネと虫がいるようだけど、キツネと虫は特別孤独なのかな。

呪文

 

ここ最近、こっそりと、人生で一番弱気になっていたんですがちょっと解決。解決記念に綴る。
まだまだ作ることを諦めなくて済みそうです。
よかったなあ、ありがとう家族、ありがとう地球、ありがとう金星(昨日みたから)。

自分には何もないんだ、と穴に落ちるように唐突に思ったとき、誰かに縋り付きたくなります。
この思考回路は、とっても卑怯だな、と思う。
普段のざくざく歩いていけるときには切り捨ててこれたアレコレが急に愛しくなる瞬間が、夕立ちのようにやってくる。
「すてきだね」「唯一無二だよ」って囁いてくれる人を探そうとする。馬鹿だなあ。意味ないなあ。
この間は、誰にも何も言わないよう自分を律していたから結局誰にも迷惑かけずに済みましたが、はたまた誰にも言わなかったから変に膨れ上がったのかもしれませんね。
でも、誰かに言うことで変質したりすることもある。難しいね。
自分以外には、あんまりネガティブなことは言わないようにしています。
頭の中はどうせぐちゃぐちゃだから、せめて言葉の上では強く潔くありたいので。
言葉につられて、強くいられるときもあるし。
言葉は呪文です。言葉にすれば、力を持ってくれる。良くも悪くも。
あなたは元気ですか?僕は元気です。

手紙の決まり文句すら、僕を護ってくれるのです。
僕は元気です。って、聞かれてもいないのに誰かに言うことで足元が強くなる気がします。
僕は元気です。手紙を書くあてが今ないので、ここで発信。

どこかの誰かへ、聞かれてもいないけど答えます。

毎日毎日、誰かに話をすることで自分に呪文をかけます。
「おはよう」って挨拶するだけで、今日も自分に朝がきたんだって気付ける。
悲しいことに足を取られないように、嬉しいことに気付けるように。

良い呪文をかけれる良い魔法使いを目指して頑張ります。
これも呪文。

邪悪な愛妻弁当

スターバックスの店員さんは何故かくも優しいのか。

僕は時々スターバックスに入店する。
巷ではスターバックスの呪文のように長い商品名や、謎のトッピング法や飲み物のサイズ選択の分かりづらさに太刀打ちできる気がしないので恐ろしいというような意見を聞く。
確かに同意するし、僕はスターバックスの常連という訳でもないのでトッピングやら豆乳アレンジやらはよく分からないし頼む勇気もない。
だってレジで「あ、あの、牛乳を、豆乳に、して頂くことって…」と言い出して「はい?当店ではそのようなサービスは行なっておりませんが」と失笑されたら、その場で切腹するしか道はない。
おそろしい。しかし僕はそんなに豆乳が好きな訳ではないので問題ない。

そういう変化球は恐ろしいが普通に注文する位はできる。

そして僕には【悪びれず質問する】という得意技があるので、レジが混んでいなければ「温かくて甘いのってどれがオススメですか?」とか「これには何が入ってるんですか?」とか「このクリームの上に乗っかってる赤いの何ですか?」とかズケズケ聞いて好みのものを決めることができる。

ちなみにレジが混んでいたらキャラメルマキアートのトール、その一択だ。

そういった魔の注文方法より何より僕が不安になるものがある。

それはスターバックスの店員さんの、明らかに他チェーンのカフェのその人たちよりにこやかで優しいその親切さだ。
不安になる。スターバックスの店員さんは何故かくも優しいのか。


以前、遠い土地でバスに乗っていたとき【ほがらか】という名前のバス停があった。
そのときの恐怖に似ている。
【ほがらか】とだけ伝えられる土地情報、その唐突な陽気さは得体が知れないが故に「ほがらか」であることは本来良いことなはずなのに、大変気持ちが不安定になる。
【ほがらか】って何!?そのバス停で降りたら、どこに連れていかれるの!?


コーヒーを選ぶのに必死でニコリともせずメニューをみつめて注文するだけの僕に対して彼女らは「待ち合わせですか?」「お財布とってもかわいいですね!」「今日はお出掛けですか?」「ゆっくりして行ってくださいね♪」と、レジ所そしてランプ下、各所でただコーヒー一杯を頼んだだけの無愛想な自分に、代わる代わる優しくしてくれる。
何故そんなに優しくしてくれるんだ。全くもってドキドキする。
僕はカレー屋で接客をしていた経験があるが、お客さんに対してあんなに優しくにこやかに接することができた試しがない。
スターバックスはスタッフに特別そういった指導をしているのか、はたまたスターバックスで働いているという自負が彼女らを笑顔に、そして親切にするのか。
僕は想像できない。
スターバックスで働く彼女たちが、夏場、部屋で半裸でアイスを食べている様が。
彼氏に話しかけられてもケータイから目を離さず無表情で「別にどうでもいいじゃん」と吐き捨てる様が。
ラーメンを食べるとき、表面に浮いている油の玉を箸で繋ぎ合わせて1つの大きな円を完成させニヤッとしている様が。
絶対に絶対に想像できないのだ。
もしかすると彼女達は本当にそんなことはしないのかもしれない。
夏場だってちゃんと可愛い部屋着をきて、アイスだってハーゲンダッツか白熊の二択。
彼氏に話しかけられたら笑って「なぁに?」と振り向いて、何ならそのとき手作りのビーフシチューを煮込んでいる最中かもしれない。
そして、食べるラーメンは表面が野菜で覆われていてハナから油の玉なんて垣間見えないのだ。
きっと、そういう人しかバイトしちゃ駄目なんだ。

そんな彼女達が屈託なく僕に笑いかけてくれる。

ごめんなさい、僕、悪い奴なんです、と懺悔したくなる程の、彼女達の、ほがらかさ。
夏場、半裸で、ごめんなさい。

大きな円を作ってごめんなさい。
恋人に関しては、付き合っている間はそれなりに優しく接しているつもりだが、いつだったか、付き合いたてだった当時の彼女と一緒に外のベンチでお昼を食べていたときに、彼女が「私も愛妻弁当が食べたい。今度作ってきて!」と言い出したので、そのとき彼女が食べていた市販の弁当のパッケージに油性ペンで大きく【愛妻】と書いて「はい、愛妻弁当。」と言って手渡して「食べたかったんでしょ?よかったね!」と、にっこり笑ってあげた。

それ以来、彼女が僕に弁当をねだることは一度もなかった。
 

 

波打ち際

生と死について書いた文章を推敲している内に、身近な人が亡くなった。
そこから更に試行錯誤して投稿したが、間違えて記事ごと削除してしまった。
それもまた必然だったのかもしれない。
誰にも読まれなかったかもしれないけれど、僕がそれを書いたということにはきっと薄く滲む絵具のように微かで強かな意義があった。

 

愛に触れると所有欲に苛まれるのに、人が誰かを所有することなんてそんなこと絶対に一生叶わないのだから実に意地の悪い仕組みだ。

そんな風に誰かを好きだと思う度に、ふと、独りであることに気付く。

ここ5年ほどで漸く気付いたが、どうやら好きなものの傍にいると、その死に寄り添うことになるらしい。
獣医さんは動物の死。芸術家は芸術の死。夫婦ならば世界一愛した人の死をこの身を以てしてみつめなければならない。
好きなものと手に手を取り合うのならば、同時に死の覚悟を持たなければならないって、ねぇねぇどうしてそんなに残酷なのかな。
そんなことを考えているからか、ここ何年も、新しい素敵な誰かとはじめましてと出会う度、僕の中ではその人の死が想起される。

この人も死ぬ。そうか死ぬのか。

そしてきっと同じ作用なのだろう、恋人ができる度に、その人と別れる日のことも具体的にイメージするような癖がついている。
「さよなら」と言われて「うん、さよなら」と言う。
あんなに好きだったのに、こんなに冷たい気持ちになれるものなんだなと、薬指の爪の白い三日月をみつめながら電車に乗って家に帰る僕の中の静けさまでもありありと上映される。

毎秒毎秒体の中で死んでいく細胞のように、感情の機微や愛や焦燥や満足や悲しみも日々生まれてはせっせと死んでいく。

そうして生きるために繰り返された死が僕にもたらした大きな花束のような悲しみと幸福を両腕いっぱいに抱えながら、いつかあの渚の向こうから本当の死が僕を迎えにきてくれるのをじっと待ち続ける。


風が熱い。もう夏が来る。

地図

引っ越してからというもの知人らに「そっちに遊びに行ったら案内してよ」と言われる。
けれど僕は人様を案内するだなんて、そんなことは到底できない。極度の方向音痴なのだ。
数年住んだ土地ですらままならず、あまつさえ生まれ育った地元でさえ怪しい。
店から出たらどっちから来たのか分からなくなるのは日常茶飯事で、会計を済ませて店員さんに「ごちそうさまでした」と言いながら出口と勘違いしてトイレの戸を開けたこともある。
このままでは駄目だ、せめて今住んでいる土地くらいは誰か来た時に案内できるようになろうと一念発起し、地図を描き始めた。

なぜ地図なのか。

世の中には一瞬道筋を確認しただけで目的地に到着できるほど道と方向に長けた人々がいる、しかも割とよくいる。

そういう人に方向音痴を治すコツを尋ねると彼らは一様に「今いる位置を上から見る感じで歩けばいいんだよ」と、のたまう。
しかし(僕が勝手に方向音痴仲間だと思っている)さまぁ~ずの三村さんも言っていたが、そんなこと言われてもさああああ?だって
三村「上から見たことねぇもん!」

どう言われても上から見る感じを掴み切れない僕はヘリを飛ばして指示を貰う訳にもいかないので、実際に自分で地図を書いて「上からみた感じ」を己の手を使って頭に叩き込むのが手っ取り早いのではないかという結論に至った。

そしてどうせなら今まで頭に溜めていたオススメのスポットを総決算した、それはそれは素晴らしい地図にしよう。
よく行く美術館から出発、ぐーーっと道を伸ばす。地図アプリを参考にしながら道を型どっていく。
動物園、いつも行く服屋、美味しかったカフェ、骨董屋、このスペイン料理屋はランチが1000円パンおかわりし放題、ここの喫茶は2Fが大抵いつも空いてて穴場。手芸物を買うならココ。
頭の中でバラバラになっていた情報が1つの紙の上に集約されていく様は心躍るものがあって、今のところ、なかなか捗っている。
今は下描きなので、チラシの裏を使ってどんどん紙を貼り足していって描き進め
ある程度の道筋が完成したら大きな紙に本書きする予定なのだが、これを作りながら僕はあることを思い出していた。

僕が中学生の頃、女子の間で「プリクラ帳」を作るのが流行っていた。

プリクラ帳というのは撮ったプリクラをとにかくノートにダーーーっと貼って、間にちょろっと絵やら文字やらを書くみたいな代物なのだけれど、それをどうしてもやりたかった僕はプリクラの代わりにチェキを使った「チェキ帳」を作っていた。

作ることが主というよりは見せ合うことが主という感じのもので、しかしどうせ作るなら凝ったものを作ろうと、雑誌を切り抜きコラージュしたり本気でイラストを描いたり、一緒に写っている友達が好きだと言っていたアニメキャラクターを模写したり。

しかし、そうやって1ページごとに悩んで作っている間に「撮ろー☆」と気軽に誘われ貼るべき写真が着々と増えていく、どうも作業が追いつかない。

たびたび友人達から「作っているなら見せてくれ」と言われたが「まだ数ページしか完成してないから」と堅物な職人ばりにその申し出を断り続け、相も変わらず念入りにレイアウトを考えたり時系列を気にしたりしている内に、僕は中学卒業を迎えた。

15ページほど完成したが残り数ページが未完成だったので結果ほぼ誰にも見せないままそれは御蔵入りとなった。
めっちゃ凝ったが故に、製作途中のまま日の目を見ずに没したのだ。
敗因は明らかに、自分の作業スピードを見誤った上での【凝りすぎ】だった。
あの悲劇を繰り返してはならない。
しかし今回の地図製作の、リサーチ・細かい道描写・増え続ける情報・下書き→本紙へ本書き(色塗り作業込み)の流れは、あの悲劇を彷彿とさせるではないか。
気合を入れてコツコツ作れば作るほど脳裏をかすめる「一生完成しないんじゃね?」的な念。
では、ゆるくてお洒落な感じの「色鉛筆で一発描き風」な作風で最初から本書きに着手すればよかったのか?
否、やはり完成度を高めるためには下書きを踏まえて本書きに入りたいし、下書きをすることによってデフォルメすべき点も見えてくるもんだし

ああ これ完成しなさそうだなあ…