8bro

キャラメルプライベート

ぐるぐる回る。


夏が来ると思い出す美しいだけのもの。

暁が裾をはためかせ、夏の空に明るさが弱く滲んでいて、夏でも朝なら涼しいねって言い合いながら一緒にDVDを返しにいった。
確か「クロエ」という映画のDVDだったと思う。

白線の上を歩いていたあの子が途切れた線を前にどうしようかと立ち止まっていたから、しょうがないなと言って抱きかかえて次の白線の上に降ろしてあげた。

 

また違う夏の真夜中。

ドライブで海に行って、座り込んだあの人を置いて浜辺の端っこに靴下と靴を放って太ももまで海に。

じっと見下げた黒々とたなびく波はまるで薄いベールを何枚も何枚も重ねてできているようだった。

1つだけ知っている海の歌を口ずさみながら浅瀬を歩く。月が浮かんでいて、昔、画集でみたムンクの絵が思い出された。

そういえばムンクは同じテーマ同じ構成の絵を何枚か書く節があって、そういうのって面白いよねって言って振り返ったけどあの人は暗い浜で煙草を吸いながら「よくわからない」と言った。

暗がりで揺れる煙草の火は小さなオレンジ色のボタンのようで、それをぼんやりみつめながら夜の海って暗くて品があって良いものだなあって考えていた。
あの人はきっと何も考えていなかったんじゃないかな。

 

鮮烈に残る記憶は夏のものが多い。

いい思い出も馬鹿みたいな思い出も、あまり濾過されないまま残る。

色々な夏や色々な人が、僕がいかに愚かでいかに冷徹で、いかに幼稚でいかに融通が利かないか、そしていかに不真面目かを丁寧に教えてくれた。
大切にされても、そうでなくても、美しくても、醜くても、何にしろ1つでも綻びができると一気に解けていって後は何も残らなかった。

それでも芸術や文学の普遍的なモチーフとされるのだから、恋愛というものはきっと何か素晴らしいものが入っているはずだと己の手で箱を振ってみるがどうやら何の音もしないのだ。

もしかしたら誰が相手でも僕が僕である限り全ての結末は同じなのかもしれない。

誰といるときも本当は誰のことも好きではなかったのかもしれない、僕が守りたかったのはただ僕1人だけだったのだという結論の前に立つと、深い洞窟を覗き込んだようでゾッとする。

誰かは僕のことを「強い」と言い、また誰かは「冷たい」と言い、また誰かは「優しすぎる」と言った。
きっとそのどれでもない。

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数独にはまる。

春が夏の尾を掴もうと、そろりそろりと爪を伸ばしていた夜。
真っ暗な病室でレントゲン写真を覗き込むとカラフルな骨が組み合わさって、人形劇が催されていたような夢をみた。
ちなみに先週みた夢は、水たまりから引きずり込まれて別の世界の水たまりに出る。
動物とピエロしかいないパステルでいい匂いのするその世界の商店街で、僕は大きな白鯨の式神を従えて古い薬屋さんの店主になった。
たまにピエロがきて薬瓶を割ろうとするのでピンクのかんしゃく玉で追い払うのだ。

人の夢の話ほど下らないものはないので夢日記はこのくらいに。

 

夜に食われっぱなし。

眠ってばかりで、どうも世界との音程が合わない。

近所の豆腐屋さんでがんもを買って湯掻いて食べて世界との調和を図るが、やはり上手くいかない。

なんでだろう、ちゃんとダシ汁作って一緒に食べたのに。
まあそういう時ってある。
色鉛筆で色を塗っても変な色になったり、ふいに書いた文字が妙に汚かったり、書き直しても全く変なバランスのままだったり。

急に家に宗教の勧誘がきて「いま、来客中ですので」と法螺吹いて断ろうとしたけど「いま、らいかくつーですので」って言っちゃったりして、咳払いして言い直す。
なんだよ「らいかく」って、客を「かく」って奥の細道の序章かよ。風流だなおい。

 

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凄いオレンジジュースが似合う花柄のガラスコップを買ってしまったので、そりゃあもう大きなオレンジジュースのパックを急いで買った。

ちょうど安かったし。注いで飲んで大変満足。
オレンジジュースが注がれたこのコップをみているときは、世界って美しいのな、となにかしらの愛を感じる。
自分で言ってて思ったけど、個人における世界の定義って案外適当なもんだな。あと愛も。
みんな世界だの愛だのって言ってるけど、結局それはそれぞれの超個人的な小さなイメージに基づいて語られることだから、あんまり気にしなくっていいってことかな。
自分で検討するには良いテーマだけど、「愛」とか「世界」とかって、人に語られると物凄く威圧的に膨らむ気がする。
相手の「世界」も「愛」も、目にはみえなくて、それなのに大きな音を立てて崩れたり組み立てられたりしている気配はある。

だから、夕方の影みたいにどんどん大きく長くみえてくる。

畏怖と崇拝は紙一重なので、同着に強く憧れもする訳ですが。僕がビビりなだけかな。


おめでたいことに僕の世界平和は色々なところに点在している。
春の朝に透けいる白いカーテンや、図書館の静寂や、上手く焼けた目玉焼きの中にもそれはいて、こっちをむいて「あいらぶゆー」って言ってくれる。
ああ、僕だって、あいらぶゆーだよ。
カーテンも、図書館も、目玉焼きも花柄のコップも、抱き締めてプロポーズしたいくらいに、かっこいい形のツララをあげたっていい位に、愛してるよ。
思い悩んだりしているとそういうものに気づかずに何個か踏みつけてしまっていて、そうしてある一定の平和が揃わないでいると日常の音程がずれていくのだろう。
ちょっとずつちょっとずつ、嫌な夢をみてしまう。
この前、天井にあった小さな鍵穴に小さな小さな鍵を差し込んだら大きな鐘の音と共に煉瓦造りの礼拝堂が真っ二つに裂けた。
ごめんなさい、と言いながら走って逃げたら何かにつまずいて転んだけれど、
それは赤いスライムを吐いて死んでいる痩せた犬だったので、ますます恐ろしくなった。

というシュールリアリスムばりの悪夢をみたので、非常にげんなりした。
悪い夢をみると二度寝をしようとは思わないからそれはそれでいいんだけれど。
ああ、また夢の話をしてしまった。

冬の句点

黒の小物を買うときは、本気で一生使うつもりで買っている。
バッグや靴、小物なら断然黒が好きで、欲しいのはダークグレーでもチャコールでもダークネイビーでもない宇宙みたいに真っ暗な黒。
赤や青や黄色や緑の目の覚めるような色の服を着て、最後の仕上げに真っ黒な靴を履く。
それは句点に似ている。

それによって自分が纏う空間を完結させている。
ここで終わり。ここまでが僕です。

高校生の頃から服の趣味も髪型もほとんど変わらない。
そのせいか昔の友達に会うと、お前だけ時が止まってるみたいだとよく言われる。
そんなことないよ?
ふと持ち上げた果物の底が驚くほど腐っているように、僕も、ゆっくりとしかし着実に、柔らかく甘く腐っていて、それでも何年も何年も形状だけ同じだなんて、それって何だか薄気味悪いね。

 


【この冬に起こったこと】

大阪の知らない大学から間違い電話がきた。
(僕が何かしたのかと思った)

女の人に「悪い人なんですね」と言われたので「そうですね」と答えた。
(気づくの遅いんじゃない?)

米軍とする手作り餃子パーティーに呼ばれたが、予定が合わなくて行けなかった。
(次は行きたい)

白と青のストライプ柄のコートを着て寄った用具店で、隣に立っていた知らないおじさんが急に「綺麗な青だね。白とのストライプで、まるで飛行機雲の通った夏空みたいだ。この青が見れただけでも、この店に来た甲斐があったよ」と言ってくれた。
(なんて完璧な褒め言葉でしょう)

大きな水槽に入った。
(きれいだった)

待ち合わせ20分前にドタキャンされたけど、死ぬほど可愛い服を2着買って気持ちを落ち着かせたのでギリギリこの星を滅ぼさずに済んだ。
(きみたち命拾いしたな)

深夜に本屋でファイルを探していて、棚からファイルを引き出した拍子に何か床に落ちたなと思ったら小さなドングリだった。
(世界ってズルい)

 

メールを打つとは言いますが

夜、バスの席に座って、ただ黒いばかりの窓の外を眺めていた。
そのときイヤホンから流れてきた音楽が「♪君にメールを打たなきゃ」云々と歌っていたのだけれど、その言葉が耳の奥の渦巻きのところにカランと引っかかったようなそんな感覚が。

 

「メールを打つ」とは言いますが。

現代において液晶画面を押しながら作るメールは「打つ」という感じを受けないのに、なぜそういう表現なのだろうか。すごく気になる。
眠る液晶画面のように暗く反射するバスの窓をじっと見つめながら、メールを「打つ」ことになった元を目指して少しずつ遡って考えることにする。


スマートフォンが「打つ」の起源ということはまずないだろう。

ではスマートフォンの前、いわゆるガラケーはボタン式携帯。

これも打つというより「押す」といった感じ。
それでは携帯がない頃のメールの手段といえば、パソコン。

「キーボードを打つ」という表現があるにはあるが「打つ」という言葉に内包されている強さに対して、キーボード程度では役不足のような気がする。

うむ、やはりこれも「押す」。

電子メール文化としてはここで途切れることになるが、最初の「打つ」はもっと前にあるような気がするので続ける。


パソコンの前は、ワープロ

しかし、ワープロのキーボードもパソコンのそれよりは分厚いとしてもほぼほぼ同じ程度だ。

だがしかし良い感じで「打つ」に近づいてきた。もう一息。
ワープロの前はタイプライター、おお、これはもう「打つ」だ。

確実に「打つ」だ。

キーの形といい、音といい、納得の「打つ」。
よしこれでゴールかと思いきや、いや、まだだ。

腰を下ろすにはまだ早い
そうです最後の大ボス、紹介します「打つ」選手権金メダル、電報。

電報はモールス信号で伝達されていた。

モールス信号なんてもう、指くじくんじゃない?て心配になるくらい打ち付けている。

まさに比類なき「打つ」、「電報を」ときたら「打つ」。
ここだ。ゴールの手応え。

電子文章を「打つ」の起源はきっと電報です。

忘れないようにメモしておこう、とまごまごしていると、いつの間にか降車するべきバス停が近づいていた。

バスから吐き出されると、棘のある冬の夜に体がめり込む。

寒い、しかし結論の手応えを噛み締めて僕は上機嫌だ。

数分間だが良い旅ができた。

残りの帰り道はぎゃんぎゃんのロックでも聴きながら歩こうかな。
耳の奥の「打つ」にかまけて流すばかりだった曲を遮って、既に一言目から叫んでいるぎゃんぎゃんのロックにダイヤルを合わせた。

自然と足取りが軽やかになる。実に良い夜だ。
 

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編み物

自分の話ばかりしているようで恐縮ですが、己の肉体から出る話なんてそういった類のことしかない。

 

歳を取るごとに、どんどんと内面が丸くなっていくのを感じる。
中学生くらいが一番ひねくれていて、少しずつ和らいで、それでも依然として自分の中に苦手な人や嫌いなものは沢山あったのだけれど、20代に入る頃には周囲から贈られる褒め言葉と自分の中で育ちきった沢山の自己嫌悪がお互い都合をつけながら然るべき場所へ鎮座し、世間からみた自分が大体如何なるものなのか、何をどこまで隠せば良いのか、そういったことを大雑把にだけれど把握するに至った。
そうすると苦手なものも不思議と減った。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、そもそも物事に主観ではない「良い」も「悪い」も在るのかどうか、そんなことすら甚だ疑問な訳で。

そういった世界との距離感を知らぬときに、ほぼ全てを晒して関わった友人達ほど今現在もちょこちょこと集まって夜話ができる。
だから、もしかしたら、知らないことが多いのは恥ずかしいことかもしれないけれど、幸せで正しいことなのかもしれない、とも思う。

 

随分昔に美術館で知らない人に付き纏われて恐ろしい思いをしたことがあった。

そしてこの間の夜に、街を歩いていて知らない人に声をかけられたが、おじさんそんな馬鹿馬鹿しいこと言って酔ってらっしゃるんですか?と、毒と社交とを然るべき配合でもって混ぜた笑顔でニッコリ笑った自分を脳天の上の方からみている自分はあの日美術館から逃げ帰った少年だった訳だが。
あの頃は、出来の悪い愛想笑いしかできずに「はい、はい」とだけ返事をして怯えて顔を逸らして、冷や汗がつめたくて、なのに、ものの5年ほどで随分と世間様をなめきったものだと、目の前で喋りたてる笑顔を曖昧にみつめながらノスタルジーに駆られていた。

あの頃よりは色々な人と出逢って、ただ人間を知った気でいるというだけのことかもしれないけれど。

しかし、あんな風に目の前の人間を純粋な恐怖でもって恐れることができなくなったというのは、どうにも沼に脚を片方つっこんでいるよう気がして胸騒ぎがする。
この数年で、自分が知ったこと慣れたことは一体なんなんだろうと、沼をじっと見下ろす。
学び取ることに無駄なものなどないとは思うし、きっとそれが必然だったのだろうとぼんやり思えるけれど、世界には、良い「知っている」と悪い「知っている」があるような気がする。
僕が今この手に持っている「知っている」は、どちらがどれだけ多いのだろう。
そんな些末なことからも自己嫌悪のイメージを膨らますことができるなんて大概に器用ですね。と少年の驚いた笑い声が脳天から降ってきて、きらめく夜半のただ中でぐらりと我に返る。

でもね、昔より幾分かおおらかに、人が美しい、そして恐ろしいとも思える。
誰かを激しく嫌悪することも、人の言葉に救われることも、そのどちらも少しずつ知っていく日々なのです。
誰にも会いたくない日と、誰かと喫茶店に行きたい日、その両方が確かにあって。
あるいは、めそめそと泣いたその次の夜には夕飯をどうするかに夢中だったり。
そういった矛盾したバラバラな心理が妙なバランスで同じ場所に育つのだということを、やんわり受け入れられるようになったのも今日この頃で。
答えや善し悪しや美しさは、1つの物事に1つとは限らない。
沢山あって良いし、あるいはそれはその日の天気によって変わったって良い。
柔らかく、柔らかく生きれたら。と、誰かの柔らかさに触れる度に焦がれる。

きっと今の自分の些末な後悔や矛盾など、あと数年もしたら、その悲しみも喜びも丸ごと暖かな過去の一頁に変わるのでしょう。
その日を楽しみに日々を煮込むというのも悪くない。

 

茄子も食べられるようになったし、大嫌いだった赤も着られるようになったのに、どうしてか、いつまで経っても人見知りが治らない。
社交スイッチを手に入れてからというもの、特に治る気配がなくて。
困ったなあと思いながら、野菜を炒めている間にそんなことも綺麗さっぱり忘れる。
家にある残り少ない食材をありったけ使って作った料理が失敗に終わって絶望しているけれど、外に出たらお向いさんの玄関マットの上でシマシマの猫がうずくまってこちらをみていた。
ぶさいくで、思わず声を出して笑ったので今日は吉。
 

 

マヨネーズ色の毛布で眠って、5回に1回怖い夢を見る

息をするのと同じくらい無意識に毎日毎日なにかしらの文章を書く。
ここ数年はパソコンのメモ帳にちまちまと書き溜めている日々の感想文のようなものの他に、さらりと手触りの良いノートに手書きの日記も少々つけているが、その日記だけは悲しいことや辛いことがあると書くのを辞める癖があるので「今日は楽しかった」という日からぽっかり空き、そしてまた「今日は楽しかった」という日で蓋をされるという妙な塩梅のものになっている。

これは僕の持論だが、思い出したくないこと覚えていたくないことは手書きの文字で書いてはいけない。

手で書いた文というのは、文字の乱れ方や空白のあけ方がそれを書いたときの感情を濃く濃く念写してしまっているので、読み返すとそこにこびりついたままの悲しみが物凄い速さで斬りつけてくる。
そういう点ではデジタルは良い。

書いているとき自分に嘘がつきやすいし、何よりすぐに丸ごと消せる。

 

 

書こうと思えばいくらでも溢れてくるこの文章の全てを自分の肉体は日々何くわぬ顔で内蔵しています。
この小さく脆弱な身体の中に、今この瞬間も嘘のように宇宙は内在しているのだと思うとその奇跡が恐ろしい。
どんだけ高性能なんだよ、人体。
こんな異様に容量の大きいシステムを持つ容器がこの世界に人の数だけあるのだと、その事実をたまに鋭利に感じます。
朝、水っぽい群青に染まる横断歩道や山や空気に囲まれたとき。
真昼に人の匂いに満ちたバスから木漏れ日を眺めているとき。
夜中に街明かりを数えて歩くとき。
ふいに射られたように、困惑が僕の胸に訪れます。

道を歩くあの人も、この人も、みんなみんな、全員もれなく、自分の歴史を持っていて、誰かを好きでいて、何かを誇っていて、何かを悲しんでいて、誰かを亡くし、今日何かを食べた、言いたいことがある、苦しいことや、思い出や、久しぶりだねと言い合う誰かがいて、部屋に帰って何かをする習慣や、なにか約束があって、後悔があって、癖や、好きな飲み物があって、暑いとか寒いとか思っている。
そういうこと全てを抱えて、それでも、容量オーバーにならずどんどん新しい日常を受容して、息をして歩いて、今夜眠る。

そんな物体がそこかしこに何億と存在しているなんて、ビルの明かりのひとつひとつにそんな宇宙がご丁寧にひとつひとつつまってるだなんて、世界の細密さにぐらぐらと目眩がします。
なんという壮絶な密度。

そんなに抱き込んで大丈夫か、世界。 

 

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