8bro

キャラメルプライベート

編み物

自分の話ばかりしているようで恐縮ですが、己の肉体から出る話なんてそういった類のことしかない。

 

歳を取るごとに、どんどんと内面が丸くなっていくのを感じる。
中学生くらいが一番ひねくれていて、少しずつ和らいで、それでも依然として自分の中に苦手な人や嫌いなものは沢山あったのだけれど、20代に入る頃には周囲から贈られる褒め言葉と自分の中で育ちきった沢山の自己嫌悪がお互い都合をつけながら然るべき場所へ鎮座し、世間からみた自分が大体如何なるものなのか、何をどこまで隠せば良いのか、そういったことを大雑把にだけれど把握するに至った。
そうすると苦手なものも不思議と減った。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、そもそも物事に主観ではない「良い」も「悪い」も在るのかどうか、そんなことすら甚だ疑問な訳で。

そういった世界との距離感を知らぬときに、ほぼ全てを晒して関わった友人達ほど今現在もちょこちょこと集まって夜話ができる。
だから、もしかしたら、知らないことが多いのは恥ずかしいことかもしれないけれど、幸せで正しいことなのかもしれない、とも思う。

 

随分昔に美術館で知らない人に付き纏われて恐ろしい思いをしたことがあった。

そしてこの間の夜に、街を歩いていて知らない人に声をかけられたが、おじさんそんな馬鹿馬鹿しいこと言って酔ってらっしゃるんですか?と、毒と社交とを然るべき配合でもって混ぜた笑顔でニッコリ笑った自分を脳天の上の方からみている自分はあの日美術館から逃げ帰った少年だった訳だが。
あの頃は、出来の悪い愛想笑いしかできずに「はい、はい」とだけ返事をして怯えて顔を逸らして、冷や汗がつめたくて、なのに、ものの5年ほどで随分と世間様をなめきったものだと、目の前で喋りたてる笑顔を曖昧にみつめながらノスタルジーに駆られていた。

あの頃よりは色々な人と出逢って、ただ人間を知った気でいるというだけのことかもしれないけれど。

しかし、あんな風に目の前の人間を純粋な恐怖でもって恐れることができなくなったというのは、どうにも沼に脚を片方つっこんでいるよう気がして胸騒ぎがする。
この数年で、自分が知ったこと慣れたことは一体なんなんだろうと、沼をじっと見下ろす。
学び取ることに無駄なものなどないとは思うし、きっとそれが必然だったのだろうとぼんやり思えるけれど、世界には、良い「知っている」と悪い「知っている」があるような気がする。
僕が今この手に持っている「知っている」は、どちらがどれだけ多いのだろう。
そんな些末なことからも自己嫌悪のイメージを膨らますことができるなんて大概に器用ですね。と少年の驚いた笑い声が脳天から降ってきて、きらめく夜半のただ中でぐらりと我に返る。

でもね、昔より幾分かおおらかに、人が美しい、そして恐ろしいとも思える。
誰かを激しく嫌悪することも、人の言葉に救われることも、そのどちらも少しずつ知っていく日々なのです。
誰にも会いたくない日と、誰かと喫茶店に行きたい日、その両方が確かにあって。
あるいは、めそめそと泣いたその次の夜には夕飯をどうするかに夢中だったり。
そういった矛盾したバラバラな心理が妙なバランスで同じ場所に育つのだということを、やんわり受け入れられるようになったのも今日この頃で。
答えや善し悪しや美しさは、1つの物事に1つとは限らない。
沢山あって良いし、あるいはそれはその日の天気によって変わったって良い。
柔らかく、柔らかく生きれたら。と、誰かの柔らかさに触れる度に焦がれる。

きっと今の自分の些末な後悔や矛盾など、あと数年もしたら、その悲しみも喜びも丸ごと暖かな過去の一頁に変わるのでしょう。
その日を楽しみに日々を煮込むというのも悪くない。

 

茄子も食べられるようになったし、大嫌いだった赤も着られるようになったのに、どうしてか、いつまで経っても人見知りが治らない。
社交スイッチを手に入れてからというもの、特に治る気配がなくて。
困ったなあと思いながら、野菜を炒めている間にそんなことも綺麗さっぱり忘れる。
家にある残り少ない食材をありったけ使って作った料理が失敗に終わって絶望しているけれど、外に出たらお向いさんの玄関マットの上でシマシマの猫がうずくまってこちらをみていた。
ぶさいくで、思わず声を出して笑ったので今日は吉。